あたらしくあゆもう
きのうのうたはわすれよう
しかしながら
きのうのうたとおなじように
きようもうたふことをおそれはすまい

     *

八木重吉の詩です。
再演作品に取り組むとき、だけでなく、演劇のことを考えるとき、いつもこの詩を思います。
そして、また同じところに来てしまったなあと自身を振り返るときも。


八木重吉の詩に出会ったのは高校生の頃でした。
少しだけ文芸部にも所属していたのですが、ふと手に取った過去の部誌に、巻頭詩として載っていたのが八木重吉の「心よ」でした。同題の詩がいくつかあるのですが、

ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ

と始まるその詩を読んだとき、しばらくその場を動くことができなくなりました。
そのときの、部室に射し込んでいた光や、埃っぽい絨毯の匂いや、ざらざらした部誌の手ざわりを、今もはっきり憶えています。

といって八木重吉とはそれきりで、本を探して読んだりはしていなかったのですが(そういう情報収集をする知恵がなかった)、
その後、別役実さんのエッセイ集『馬に乗った丹下左膳』を読んでいたら、何と、別役さんが「八木重吉詩集」について書いていたのです。
熱心に読み込んでいたというのでもないが、「貧乏する度に売り払っていた」蔵書の中でもそれだけは常に残っていて、或る戯曲の中で八木重吉の詩が「登場人物の口をついて出てきた時」、いつの間にかその「言葉の断片」が「私の中で何ごとかをそそのかし」ていたことに気づいた、という話です。
「以後、八木重吉の詩は、私にとって特別のものとなった」──
感動の再会、というのも変な言い方かもしれませんが、それから改めて『八木重吉全詩集』を入手したことは言うまでもありません。
別役さんは「もしこういう言い方が許されるなら、『八木重吉詩集』を、ほとんど実用書として役立てている」と書いています。それは、詩というより「生の言葉そのものとして、直接私に作用」し、「私の中の何ものかを浄化してくれるような気がする」のだと。


ほそい 
がらすが
ぴいん と
われました


別役さんも例に上げているただこれだけの詩ですが、なんとも、こんな言葉に出会ってしまった、としか言いようがなく。


うたで絵を描こうとするおろかしさ
絵にかけぬひとつの断面をうたは生きてゆく


かと思えばこんな詩もあって、演劇もまた、と意を強くしたりもいたします。

広田ゆうみ

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