広田+二口企画の日々

京都を拠点に活動する俳優・広田ゆうみと二口大学。 2019年4月から、別役実作品の上演を5つの町で行います。

表
裏
広田ゆうみ+二口大学
別役実「この道はいつか来た道」「クランボンは笑った」

各地公演 ご予約は下記よりお願いいたします。
(★アフタートークあり)

京都公演「クランボンは笑った」 於 人間座スタジオ
4月12日(金)19:30★  13日(土)15:00/19:00【公演終了しました】
★はアフタートーク開催 ゲスト:筒井加寿子さん(ルドルフ)

上田公演「この道はいつか来た道」 於 犀の角
5月18日(土)19:00★  19日(日)14:00★【公演終了しました】
★はアフタートーク開催 18日ゲスト:荒井洋文さん(犀の角)
19日ゲスト:野村政之さん(長野県文化振興コーディネーター・ドラマトゥルク)
5月17日(金)ワークショップ開催

那覇公演「この道はいつか来た道」 於 アトリエ銘苅ベース
5月24日(金)19:00  25日(土)19:00★  26日(日)14:00
★はアフタートーク開催 ゲスト:当山彰一さん
5月23日(木)ワークショップ開催

三重公演「クランボンは笑った」 於 津あけぼの座
6月22日(土)19:00★  23日(日)14:00
★はアフタートーク開催 ゲスト:松原豊さん(写真師・Office365番地)
6月21日(金)ワークショップ開催

松山公演「クランボンは笑った」 於 シアターねこ
8月23日(金)19:30★  24日(土)14:00/19:00
★はアフタートーク開催 ゲスト:本坊由華子さん(世界劇団)

『クランボンは笑った』三重公演 無事終了しました。
ご来場くださいました皆さままことにありがとうございました。おなじみの方、はじめての方、遠方から来てくださった方、多くのお運びをいただき感謝しております。
また、毎度ながら手厚く迎えてくださいました津あけぼの座の皆さま、お手伝いくださいましたカミハマ演劇研究所の皆さまにも心より御礼申し上げます。
そして、アフタートークにいらしてくださった写真家の松原豊さんも、ありがとうございました。「わからない」ことの豊かなお話をしていただけて、とてもよい時間でした(アフタートークのあとお話も面白く、むしろお客様に聞いていただきたいくらいでした)。

三重公演にあたって、一昨年の『いかけしごむ』、昨年の『この道はいつか来た道』に比べて「わかりにくい」作品だから……という話もしていましたが、あにはからんや、むしろわかる、とか、或る意味リアルだった、とか、或いは、なんだかわからないけどよかった、という声をいただき、ありがたい限りでありました。
三年目の積み重ねということもあるかと思いますが、何しろ別役さんの作品世界の力を改めて感じました。
「わからない」ことをそのままに、ぎりぎりのところで「いる」ということを届けられたなら、それが皆さまのどこかに響いたなら、と思います。
問いを問いのままに。夜を夜のままに。

    * 

子どものころ読んだ科学読本シリーズのようなもので、「空間」について書いてある巻がありました。その一頁に、ごく小さな箱の中に立っている人の挿絵と共に、「ある場所にきみがいたら、そこにはもう決して他の誰もいることができない、空間というのはそういうものだ」というようなことが書いてありました。
内容自体の記憶は確かではありませんが、その頁を読んだときに覚えた感触は、はっきりと憶えています。
何故かひどく恐ろしくて、けれどもうつくしくて、ああ、これはほんとうにほんとうにほんとうのことなのだ、と思ったのです。
まるで、決して明けない、しかし月の光がどこまでも降り注ぐ夜に立ち尽くすように。

     *

次は8月、シアターねこへ参ります。
また改めて精進いたしたく、どうぞよろしくお願いいたします。

広田ゆうみ

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あたらしくあゆもう
きのうのうたはわすれよう
しかしながら
きのうのうたとおなじように
きようもうたふことをおそれはすまい

     *

八木重吉の詩です。
再演作品に取り組むとき、だけでなく、演劇のことを考えるとき、いつもこの詩を思います。
そして、また同じところに来てしまったなあと自身を振り返るときも。


八木重吉の詩に出会ったのは高校生の頃でした。
少しだけ文芸部にも所属していたのですが、ふと手に取った過去の部誌に、巻頭詩として載っていたのが八木重吉の「心よ」でした。同題の詩がいくつかあるのですが、

ほのかにも いろづいてゆく こころ
われながら あいらしいこころよ

と始まるその詩を読んだとき、しばらくその場を動くことができなくなりました。
そのときの、部室に射し込んでいた光や、埃っぽい絨毯の匂いや、ざらざらした部誌の手ざわりを、今もはっきり憶えています。

といって八木重吉とはそれきりで、本を探して読んだりはしていなかったのですが(そういう情報収集をする知恵がなかった)、
その後、別役実さんのエッセイ集『馬に乗った丹下左膳』を読んでいたら、何と、別役さんが「八木重吉詩集」について書いていたのです。
熱心に読み込んでいたというのでもないが、「貧乏する度に売り払っていた」蔵書の中でもそれだけは常に残っていて、或る戯曲の中で八木重吉の詩が「登場人物の口をついて出てきた時」、いつの間にかその「言葉の断片」が「私の中で何ごとかをそそのかし」ていたことに気づいた、という話です。
「以後、八木重吉の詩は、私にとって特別のものとなった」──
感動の再会、というのも変な言い方かもしれませんが、それから改めて『八木重吉全詩集』を入手したことは言うまでもありません。
別役さんは「もしこういう言い方が許されるなら、『八木重吉詩集』を、ほとんど実用書として役立てている」と書いています。それは、詩というより「生の言葉そのものとして、直接私に作用」し、「私の中の何ものかを浄化してくれるような気がする」のだと。


ほそい 
がらすが
ぴいん と
われました


別役さんも例に上げているただこれだけの詩ですが、なんとも、こんな言葉に出会ってしまった、としか言いようがなく。


うたで絵を描こうとするおろかしさ
絵にかけぬひとつの断面をうたは生きてゆく


かと思えばこんな詩もあって、演劇もまた、と意を強くしたりもいたします。

広田ゆうみ

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